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ガワン・ワンドゥンの証言 刑務所での拷問と尼僧の死

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ガワン・ワンドゥン
ガワン・ワンドゥン Ngawang Wangdon プロフィール

1977年生まれ、メドクンガ出身。1991年、ラサのミチュンリ寺にて出家。1992年2月3日、4人の尼僧、1人の僧侶とともに平和的デモに参加し、逮捕される。懲役3年。釈放後インドに亡命。
元チベットの「良心の囚人」たちのグループ『9-10-3(グチュスム)の会』のメンバー。
現在はダラムサラから4kmほど離れたドルマリン尼寺に住む。2002年11月にはアムネスティ・インターナショナル日本の招きで来日。全国スピーキング・ツアーにてチベットの悲惨な状況を訴えた。


シェーラブ・ンガワンが亡くなってから、もう何年も経つけれども、1日たりとも彼女のことを忘れたことはありません。シェーラブ・ンガワンは、わずか17才でこの世を去りました。

私はメドクンガという小さな村で、1977年に生まれました。メドクンガは、チベットの首都ラサからバスで4時間程離れた貧しい村です。村人は、わずかな家畜と痩せた畑からできる農作物より生計を立てています。畑には大麦を植え、それを炒った麦焦がしが私たちの主食でした。村には学校が1つだけありました。3年間の初等教育を学ぶことができましたが、子供たちは幼いころから、家畜の世話や農作業を手伝わなければならなかったので、学校に通える子供はわずかでした。

私は、14才の時にラサのミチュンリ寺にて出家しました。1991年のことです。シェーラブ・ンガワンも同じ年に出家しました。確か彼女が13才のときのことだと思います。ラサには割と大きな尼寺が5つほどありますが、当時、すでに多くの尼僧たちがチベット独立のデモに参加し、逮捕されていました。デモに参加すれば、懲役を受けるのはもちろんのこと、拷問や厳しい強制労働を味わうはめになることは、みんな承知していましたが、それでもデモに行くものは絶えませんでした。私たちの寺からも、多くの尼僧たちがデモへと繰り出し、そして逮捕されていきました。私もいつの日にか、デモをすることがチベット人として当然の義務のように感じるようになっていました。

1959年、ダライ・ラマ法王がインドに亡命してしまうと、中国はチベットを巨大な強制労働キャンプへと変えてしまいました。何万人、いや何十万人といた僧侶たちは、すべて監獄へと放り込まれ、家畜以下の取り扱いを受けました。そして、実にチベット人の5分の1にあたる120万もの命が、拷問や餓えによって失われていったのです。1980年、毛沢東が亡くなるまで、チベットには1人の僧侶もいませんでした。それどころか、僧院のほとんどが壊されてしまっていたのです。1980年、政権が変わると、多少の宗教の自由が認められ、寺の再建が始まりました。生き残った僧侶たちが、ようやく寺に戻って来ることができたのもこの年でした。

でも、宗教の自由とは名ばかりでした。出家者は厳しく当局から監視され、出家者の数も制限されていました。私たちの唯一の心の支えであるダライラマ法王への信仰は固く禁止され、代わりに共産党教育の講義を寺で受けねばなりませんでした。全ての利権は中国人の手に握られていて、チベット人は自分たちの国であるというのに、中国人の許可がなければ、移動することですらままなりませんでした。1987年9月27日、デプン寺の僧侶たちが、ラサで初めてのチベット独立要求のデモを行うと、次々にデモが続くようになりました。そのほとんどは、僧侶や尼僧によるものでした。出家の身である私たちには、養うべき子供も家族もいないため、みんな喜んでチベットのために犠牲になることができます。シェーラブ・ンガワンも幼かったにもかかわらず、チベット独立のために行動するという意志は固く、そのためには何でもすると言っていました。

1992年2月3日、私とシェーラブ・ンガワンを含めた5人の尼僧、そしてセラ寺の僧侶の計6人でデモを行いました。チベット人のデモは過激なものでは全くありません。ただ、ラサの中心地にあるジョカン寺の周りの右繞道(パルコル)で「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王万歳」と叫ぶだけなのです。

私たちが、パルコルでスローガンを叫ぶやいなや、すぐに公安が駆け付けました。公安は私たちを棍棒で殴り倒すと、トラックへと放り込みました。私たちは全く抵抗しませんでした。こうなることは、初めから覚悟していたことなのです。セラ寺の僧侶は頭から血を流していました。ひどく痛むのか、刑務所へと向かうトラックが揺れる度に、呻き声を出していましたが、話し掛けることはできませんでした。

グツァ刑務所での尋問や拷問は覚悟していましたが、遥かに想像を越えるものでした。中国人が聞きたいことは1つでした。「一体、誰がデモを煽動したのか」。私が幾度も「みんなで話し合って決めたことだから、リーダーはいない。誰かに命令されたわけでもない。自分たちの意志でやったのだ」と本当のことを言っても、彼らは納得しませんでした。散々殴られた後、外に連れていかれ、刑務所の塀にむかって手をあげたまま立っているように命令されました。体中が痛み、あげた手はまもなく痺れてきましたが、下ろすと看守から殴られました。みんなはどうしているんだろうと仲間のことだけが気掛かりでした。昼の1時〜7時ごろまでそうしていたでしょうか。やがて、トイレに行くことが許され、振り返ると、同じように仲間もそうさせられていました。ひどく殴られたらしく、みんな顔を腫らしていました。

みんな別々に独房に入れられました。ときどき看守がドアを叩くたびに、また尋問に呼ばれるのかとゾッとしましたが、私の返事を確かめると去っていきました。3日後、トイレ用のバケツを空けるために、はじめて外に出ることが許されました。5日後から再び尋問が始まりました。同じ質問が繰り返されました。毎回殴られたわけではありませんが、拷問道具は常にテーブルの上に並べてありました。

3ヶ月後にようやく独房から出され、皆と一緒の監房に入れられました。監房にはトイレがついているわけではありません。隅に置かれたバケツがトイレでした。毎朝、1度だけ空にするだけだったので、監房の臭いはひどいものでした。

やがて、リーダーとみなされた1人の尼僧に6年の懲役が下り、セラ寺の僧侶と他の尼僧には5年が、そして私とシェーラブ・ンガワンには3年の懲役が下されました。私は15才、シェーラブ・ンガワンはわずか14才だったのにもかかわらず、成人と同じ刑が課せられたのでした。

朝から晩まで強制労働を課せられる日々が続きました。私の仕事は、ビニールハウスや畑に肥料を蒔くことでした。トイレから人糞を汲み上げ、畑との間を日に幾度も往復せねばなりませんでした。

1994年の8月10日の夜の10時頃ことでした。私たちは歌を歌いました。チベットが独立する日を夢見る歌、監獄のつらさを歌った歌、そしてダライラマ法王をたたえる歌を。シェーラブ・ンガワンもいました。監獄では政治囚たちは看守にみつからないように、こっそりとよく歌を歌います。誰が作ったのかは知らないのですが、政治囚たちは歌詞をよく知っていました。新入りの尼僧たちに、長くいる尼僧が歌を教える。監獄の長い夜はよくそうやってふけていきました。

ここダプチ刑務所からは空しかみえない
空を流れる雲たち
それが父や母だったら、どんなに素敵だろう
監獄の友たちよ
わたしたちはノルブリンカの花
どんな雹や霜だろうが
わたしたちのつないだ手を離れさせることはできない
いつか必ず雲の後ろから太陽があらわれる
だからそんなに悲しまないで
たとえ太陽が沈んでしまっても
こんどは月が照らしてくれる
だからそんなに悲しまないで

その晩、私たちは隠れて歌ったりはしませんでした。看守に聞こえるように歌いました。そんなことをしたら、どんなことになるかぐらい分かっていましたが、私たちは敢えて歌ったのでした。すぐに、監房から引きずり出されると、ロープできつく縛られ、激しい拷問を受けました。ひとりの尼僧が気絶し、床に倒れ込みましたが、看守たちはそれでも殴るのをやめませんでした。私たちは立ち上がれなくなるまで殴られた後、夜中の3時半頃、縛られたまま、窓1つ無い独房に入れられました。1畳程しかないその牢獄には、トイレ用の溝がある以外、寝具もベッドもありません。そんな暗闇の中に、1週間も入れられていました。1週間後、独房から引きずり出され、またひどく何時間も拷問を受けました。耳は何度も激しく引っ張られたため、血だらけになっていました。

シェーラブ・ンガワンの小さな体も、ぼろぼろになっていました。彼女の顔は腫れ上がり、すぐには誰だかわからない程でした。それからです。彼女の言動がおかしくなったのは。何でもすぐ忘れるようになりました。記憶もちぐはくになり、変なことを口走ったりするようになりました。いつも背中や腎臓、胸の痛みを訴えていました。食欲も落ち、最後には何も喉を通らなくなったのです。刑務所側は彼女の容態の悪さを知りながら無視をしていました。何度も私たちが懇願した結果、ようやく病院に検査のためにつれていきましたが、腎臓が弱っていると言っただけで、何の治療もしてはくれませんでした。

1995年2月2日、私とシェーラブ・ンガワンは刑期を終え、村に戻りました。しばらくして彼女に手紙を書きましたが、返事は来ませんでした。数カ月後、彼女が4月17日に亡くなったという知らせを受けました。

私は彼女の家を訪ねました。家には残こされた両親だけがいました。私たちは最初話すことができず、ただただ泣いてばかりいました。釈放後、シェーラブ・ンガワンはラサの病院に入院したけれども、容態は好転はしませんでした。そして、約2カ月後の4月17日、彼女は息を引き取りました。体中の痛みに苦しんだ末のことでした。彼女の両親の嘆きは見ていてられませんでした。まだ17才というのに、苦しみながら死なねばならないなんて。

シェーラブ・ンガワンを鳥葬した人はこう言ったそうです。「こんなにひどい状態の若い死体は今まで見たことがない。腎臓も肺もボロぞうきんのようだったよ」と。

私たちと一緒にデモをした、もう1人の尼僧も亡くなりました。プンツォ・ヤンキは、逮捕された時、19才でした。5年の懲役を受けて服役していたのですが、1994年6月4日に亡くなりました。彼女も1994年2月11日に仲間たちと歌を歌い、激しい拷問を受けたのです。こうして、仲間の2人が拷問によって亡くなりました。私は寺に戻ることを許されなかったので、仏教の修業と勉学を続けるために、インドに亡命してきました。死んでしまった2人のことを外の世界に伝えねばという思いもありました。

ヒマラヤを越えるのは容易ではありませんでした。体の弱っていた私は、道程のほとんどを仲間の背中におぶってもらうわねばなりませんでした。

釈放されてから、もう何年も経ちますが、いまだに拷問の後遺症に悩まされています。特に腰と腎臓が悪く、先月も入院していました。

どうか、チベットがこんなにも悲惨な状況であることを忘れないで欲しいのです。
本当に心からのお願いです。

(インタビュー&翻訳/ルンタ・プロジェクト